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水橋売薬の歴史

0.はじめに
・・・水橋について
・・・「越中富山の薬売り」と水橋売薬
1.水橋売薬の発祥
1.1 水橋売薬の発祥
・・・富山町、高月等の売薬商からの株分けで始まった水橋売薬
・・・富山町、高月等の売薬商からの株分けを示す資料
1.2 水橋売薬発祥の背景
2.水橋売薬人同士の連帯の動き
2.1 仲間組、向寄を組織
2.2 水橋売薬の仲間組と向寄の実態
・・・連帯の動きを示す資料
・・・加賀藩越中領内の売薬仲間組の構成
・・・仲間組の構成状況を示す資料
3.水橋売薬の組織と藩の支配
3.1 水橋売薬の組織と藩の支配
3.2 売薬商売の実態
・・・売薬商売活動の流れ
・・・売薬商売の必携品
4.水橋売薬と他地域売薬の競合と連携
4.1 他地域売薬との競合と連携
4.2 水橋売薬産業の拡大
4.3 石黒屋喜八郎と富山町売薬人の競合
4.4 地域を越えた連携の動き
5.明治維新と水橋売薬
5.1 明治新政府による売薬業統制の動き
5.2 明治維新と水橋売薬人
・・・明治新姓までの経緯
・・・明治新姓と水橋売薬人
・・・明治新姓までの経緯を物語る資料
6.明治・大正・昭和の水橋売薬
(執筆中)
7.現在の水橋売薬
(執筆中)
8.おわりに
  
水橋売薬
データべース
水橋売薬古文書
電子閲覧室
水橋売薬を詳しく知るために
・・・博物館、図書館等に関する情報・リンク
・・・文献、資料等に関する情報・リンク
水橋を詳しく知るために
・・・富山県富山市水橋地区に関する情報・リンク
  
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水橋売薬の歴史をひもとく
© 2003-2005 Takeshi Kagaya

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水橋売薬の歴史
4.水橋売薬と他地域売薬の競合と連携
さてここからは水橋売薬と他地域売薬の競合と連携についてお話しします。
4.1 他地域売薬との競合と連携
水橋売薬は仲間組、向寄を組織し、さらに商圏の拡大を進めていきましたが、幕末にかけて富山町売薬等との競合や旅先藩からの差止めといった試練が続き、必然と地域を越えた業者間の連携・統制の必要性が出てきました。
彼らはやがて地域を越えて仲間組や向寄を組織し始め、旅先藩への共同交渉も行うようになり、時代は競合から連携へと大きく変わりつつありました。
これは地域を越えた『越中売薬』意識の始まりと言えるのではないでしょうか。

4.2 水橋売薬産業の拡大
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注)青数字は当方の試算による
注)持株人と売子の重複若干あり |
〔参考:文政五年(1822) 御国並他国売薬場所人々名前相改書上申帳 東水橋〕
〔参考:嘉永六年(1853) 山淵控書〕
〔参考:安政六年(1859) 諸商売取調理書上申帳 新川郡〕 |
ここでは、水橋売薬の発展の様子を、売薬従事者数の推移から探ってみたいと思います。
なお、記録のない時代は前後の増加比率等から試算しています(青字)ので、このデータはあくまで参考としてご覧ください。
文政五年当時、東西水橋で株持人70名ほど、売子200名ほどだったのが、およそ40年後には、株持人110人ほど、売子750人ほどに増加しています。これは富山町売薬に次いで2番目の規模を誇ります。
ちなみに嘉永六年の水橋浦人口に占める売薬業従事者(持株人、売子)の割合は20%です。
4.3 石黒屋喜八郎と富山町売薬人の競合
このように水橋売薬は右肩上がりの発展していきましたが、同時に他地域売薬との競合を引き起こしたのもまた事実です。
こうした競合の例として、有名なところでは、出雲(現島根県)における、東水橋上野屋理三郎と高月高田清次郎とのあいだで起こった例や、「1.水橋売薬の発祥」でとりあげた、富山町売薬人から訴えを起された東水橋石黒屋喜八郎の例があります。
旅名前 高田喜八郎売子
一 弐人 喜八郎
善兵衛
但 讃州予州迄
〆 株持人 石黒屋喜八郎 |
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「文政五年(1822) 御国並他国売薬場所人々名前相改書上申帳 東水橋」より石黒屋喜八郎部分抜粋
〔原本:財団法人水橋郷土史料館所蔵〕 |
ここでは、石黒屋喜八郎を取り上げたいと思います。
石黒屋喜八郎(高田喜八郎)は、「文政五年 御国并他国売薬場所人々名前相改書上申帳」にすでにその名が見られ、水橋売薬人としては早い創業といえます。この文書の石黒屋喜八郎に関する部分からは、東水橋西天神町に暮らし、旅名前「高田喜八郎」を名乗り、讃州(現香川県)・予州(現愛媛県)に懸場を持つ、とあります。
また、その他の古文書からは、同門として石黒屋喜四郎、喜三郎の名があるので、血縁か暖簾分けの関係だったと思われます。
さて、石黒屋喜八郎は、江戸末期には肥後熊本藩領に懸場を広げ、同領内の豊後鶴崎・佐賀ノ関、肥後八代において富山町売薬人と競合を起します。富山町売薬人からは、旅名前「高田喜八郎」で呼称されていたようです。
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| 肥後熊本藩領と鶴崎、八代 |
彼が行商を行っていた豊後鶴崎とは、肥後熊本藩の飛び地で、細川家の参勤交代のための港が置かれ港町として賑わっていました。
鶴崎
肥後元藩主加藤氏が豊後国内に拝領した鶴崎(現大分市)、佐賀関
(現佐賀関町)等の飛地(2万3000石余)。
加藤氏に替わり細川氏が入封後もそのまま受け継がれ、幕末まで肥後藩領。参勤交代のため港が置かれ、瀬戸内に向っての海の玄関口として栄えた。◆
旅名前
行商先で行商人が名乗る、いわゆる「ブランド」名のこと。持株人、すなわち売薬商人自身の名を名乗る場合も多いが、株を買収し元持株人の懸場(行商先の顧客)を受け継ぐ場合は、そのまま元の旅名前を使用することもあった。◆
株持人 売薬業を行うための株の所有者、すなわち売薬商のこと。。 売薬株には2種ある。水橋の場合、1つは十村(とむら、他地域での大庄屋にあたる)から受けた越中国内での売薬商としての営業免許(正式には「売薬元人附売子他国出脚役札」という)である。売薬商は組合(仲間組)を組織し、売薬商数の管理を行うとともに、十村との交渉を行い、発行を受けた。この鑑札(株)は、一枚金2両2歩で売買された。 もう一つは旅先(行商先)の藩から受けた、入国および行商の許可免許である。これは国ごとに選ばれた藩との折衝役、向寄(むかいより)を中心に活動し、発行を受けた。
こうして2つの株を得た売薬商が行商を行うことができた。顧客(懸場)に配置した薬高(貫高)を記したものを売薬場所帳面、すなわち懸場帳といい、この懸場帳の売買時は、さきの「売薬元人附売子他国出脚役札」(営業免許)を含めて行われるのが一般的だった。なお、実際の行商には、これらに加えて道中手形も必要だった。◆ |
それでは、石黒屋喜八郎と富山町売薬人の争いについて詳しくみていきます。富山町売薬人が実際に肥後熊本藩に訴え出た文書が複数現存しています。
| 弘化二巳年(1845) |
熊本呉服町掛り別当より豊後鶴崎町別当宛、加賀領水橋高田喜八郎手代三人、鶴崎へ売薬入付をなせる件につき書状 |
| 弘化四未年(1847) |
富山売薬人松井屋善蔵外二名より熊本役筋宛、佐賀ノ関・鶴崎表へ加賀領売薬人入付取締を願う |
| 嘉永二酉年(1849) |
富山売薬人共より財津九十郎・同熊三郎を通じ、富士川羽左衛門宛、加賀領売薬人の鶴崎・佐賀ノ関売薬入付に関し取締方を願う
訴えられた加賀領売薬人名
東岩瀬 城河原屋 与兵衛
同所 松井 甚兵衛
東水橋 高田 喜八郎
滑川 高田 清次郎 |
| 安政四巳年(1857) |
富山売薬人共財津九十郎を通じ熊本町方根取宛、加賀領水橋・滑川の売薬人熊本領入付取締を願う |
| 安政六未年(1859) |
富山売薬人共財津九十郎を通じ熊本町方根取宛、肥後八代表へ加賀領売薬人入付に関し願をなす |
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東水橋石黒屋喜八郎と富山町売薬人との競合に関する資料
〔出典:富山売薬業史史料集 p900-936〕 |
嘉永二年の訴えでは、石黒屋喜八郎(高田喜八郎)をはじめ水橋・滑川の売薬人等の名と、配置した薬袋が添付されました。この薬袋の表書きが富山県売薬業史史料集で活字化されていますので、以下に転載します。
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| 注)□は当時の訴状のまま。印影を表現したと思われる。 |
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嘉永二酉年(1849) 富山町売薬人からの訴えに添付の薬袋表書き
〔出典:富山売薬業史史料集〕 |
安政六年の訴状を最後に資料がありませんが、その後両者の争いはどうなったのか、現状では不明です。熊本藩から判断が下ったのか、資料収集が必要です。
これらの訴状は、あくまで富山町売薬人の立場で記されたものであり、石黒屋喜八郎らが富山町売薬人の商圏を荒らす『悪役』となっていますが、今後客観的な研究を進めることで、当時の売薬業界を巡る実態が明らかになるでしょう。
4.4 地域を越えた連携の動き
競合の一方で連携の動きも進められました。現在広く知られている資料から、水橋売薬が関係する、地域を越えた連携の動きを示すものを整理してみます。

このようにお互いを認め合い、連携して難局に立ち向おうとする姿勢、ひいては売薬業界全体の発展を目指す動きは、明治以降の『富山県の売薬』への流れを感じさせます。
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5.明治維新と水橋売薬 へ
© 2003-2005 Takeshi Kagaya



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